備忘の果実 〜オスカー戯言日記〜

好きなことを好きな時にチマチマと書いています(⁠๑⁠˙⁠❥⁠˙⁠๑⁠)

【空のお城通信〜オスカー戯言日記〜】(2010.3.17〜2021.10.31 )からタイトルを変更。(2021.11.7〜)

この世界の片隅に

炎昼雲便りNo.19:しずかな夫婦

『この世界の片隅に』漫画は読んだけれど、アニメは見ていない私、ドラマはチラチラと見ていますが、みんなスマートでキレイ過ぎるのは仕方ないのでしょうか。「傘問答」(柿問答)時代だなぁと思いました。

https://happyrico.com/konogsekai-kakimondo/




天野忠さんの『しずかな夫婦』という詩があります。 『通勤電車で読む詩集』に収められていました。編著の小池昌代さんの

【 詩のなかに、いびきをかく女房が出てくる。いや女房とは、いびきをかく者のことを言うのだ。なにしろいつも、深く疲れているのだから。結婚とは実に面倒で厭なものだ。それは確かだが、この詩を読むと、そう言い切ることに躊躇を覚える。だが同時に、この一篇が生まれるために費やされた歳月を思って、誰もが言葉をなくすだろう。人を無口にさせる名詩だ。】

という言葉が深くしずかに心に沁みていきます。





 『しずかな夫婦 』 天野 忠


結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくにしずかな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日突然やってきた。
昼めし代わりにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き
昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。
下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し
お見合いだ お見合いだ とはやして逃げた。
それから遠い電車道まで
初めての娘と私は ふわふわと歩いた。
-ニシンそばでもたべませんか と私は云った。
-ニシンはきらいです と娘は答えた。
そして私たちは結婚した。
おお そしていちばん感動したのは
いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ
ポッと電灯の点いていることだった-
戦争がはじまってた。
祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩
子供がうまれた。
次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ
徴用にとられた。便所で泣いた。
子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。
ひもじさで口喧嘩も出来ず
女房はいびきをたててねた。
戦争は終った。
転々と職業をかえた。
ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。
いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。
貧乏と病気は律儀な奴で
年中私たちにへばりついてきた。
にもかかわらず
貧乏と病気が仲良く手助けして
私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。
子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)
思い思いに デモクラチックに
遠くへ行ってしまった。
どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって
夫婦はやっともとの二人になった。
三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。
-久しぶりに街へ出て と私は云った。
 ニシンそばでも喰ってこようか。
-ニシンそばは嫌いです。と
私の古い女房は答えた。

    

春光雲便りNo.7:くれない

映画『この世界の片隅に』が大ヒットして、戦中生活などについて、あらためて関心をもった人も多いと思うのですが、そこに留まらず、まだまだたくさんの資料や作品等があるので、もう一歩踏み出してまたいろいろ考えなくてはなぁ・・・と思っていたら『戦争とおはぎとグリンピース』という本が
西日本新聞社から昨年5月に発売されていたことを知りました。



【戦後まもなく、西日本新聞において、女性に特化した投稿欄「紅皿」が開設された。この投稿欄に昭和30年代掲載された作品の中から今読んでおきたい42編を選び、その一編ずつに解説をつけた。また、若い読者のために、用語解説も加えた。権力も武器も持たぬ市井の人々が何を願い何を守り何を光に生きてきたかを見つめ、戦後70年を経て新しい時代に踏み出そうとしている私たちのなすべきことを考えるきっかけにしようとした。】



帰国船が着く度におはぎを胸に息子を探す母親、配給の古い鍋に刻まれた家族の歴史・・・敗戦から9年後の昭和29年から、10年間に寄せられた3千を超える投稿から選ばれた42編。およそ600文字という制限の中で書かれた女性たちの日々の喜びや悲しみ。誰かに話すだけでなく、書かずにはいられなかったその気持ちがあふれているんだろうと思います。購入して読みたい一冊です。




私はお名前も存じ上げなかったのですが、14歳のとき長崎で被爆した体験を原点に、一貫して核兵器と人類の問題を表現し続けた作家の林京子(はやし・きょうこ)さんが2月19日に86歳で亡くなられたそうです。



◆誰と手をつないでいるの? 幼い長男に尋ねては、「ママ」と答えさせた。何度もそうしたという。原爆症が、いつ自分の命を奪いに来るか知れない。「母親の記憶を残したかったので」と、本紙で語ったことがある。◆短編『友よ』で、母親が言う。〈あんたが死んどれば、今日は三十三回忌だいね〉。おそらくは8月9日がめぐり来るたび、今年は何回忌とわが身の祥月命日を数えてきたのだろう。死の隣で、死を通して生を見つめた人である。
(3月2日読売新聞朝刊・編集手帳より)




今、中学生の時に国語の教科書で一部しか知らなかった『アンネの日記』を読んでいます。結構赤裸々に身体の変化や母親や姉に対して、一緒に隠れ家に住んでいる人たちについて書いてあって、ビックリしたり納得したり・・・。以前、小川洋子さんがアンネの暮らした場所や友人たちを訪ねる旅の本を読んでいたので、ああ、あの人のことか、あの場所かと思い出すことが出来てよかったです。



ちょっとイヤなことが続くと、どうしてもぐちぐち・ぶつぶつ(# ̄З ̄)言いたくなるんですが、まだまだ私なんて何の苦労もしていない、我慢できるはず!とアンネや先輩(はるか昔の女性)たちのたくましさに助けられています。今日も1日、出来るだけ笑顔で頑張ってきますね~皆さまもよい1日になりますように(*´∀`)ノ

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