ささやかな人生

2018年05月30日

若夏雲便りNo.27:加減乗除

5月も明日で終わり、関東の梅雨入りも時間の問題ですね。ブログに書くようなネタがなかったのですが、簡単な算数問題に(-ω- ?)となるようになったワタクシ、谷川俊太郎さんの詩のはタイトルにひきよせられました~ささやかなしあわせ、ささやかな人生、それもまたヨシ(笑)




『足し算と引き算』谷川俊太郎


何もないところに
忽然と立っている 
ひとりの女とひとりの男
そこからすべては始まる

青空?
よろしい青空をあげようと誰かが言う
そしてふたりの頭上にびっくりするような青空がひろがる
地平線?
よろしい地平線をあげようと誰かが言う
そしてふたりの行く手にはるかな地平線が現れる

その誰かが誰かはいつまでも秘密
ふたりはただ贈り物を受け取ることができるだけ
それからはこの世の常で
ありとあらゆる物が降ってくる
お金で買えるものもお金で買えないものもごたまぜに

ふたりはとりあえず椅子に座る
椅子に座れるのは幸せだ
次にはテーブル
それがいつのまにか見慣れたものに変わっていくのは幸せだ  
朝の光の中でふたりはお茶を飲む
いれたてのお茶を飲むのは幸せだ
だが何にもまして幸せなのは
かたわらにひとりのひとがいて
いつでも好きなときにその手に触れることができるということ

昔はそんなのはプチブル的だなんて言う奴もいた
でも今じゃみんな知ってる
幸せはいつだってささやかなものだってこと
不幸せはいつだってささやかなんてものじゃすまないってこと

しかし幸せはいったいどこまでささやかになれるんだろう?
この当然の疑問に答えるために
ふたりは茶碗をたたきつける
テーブルをぶっこわす
椅子を蹴倒す
この世の常なるものをなにもかも投げ捨てて
青空を折り畳み地平線を消してしまう
そして少し不謹慎かもしれないがすっぱだかになる

驚くべきことにそれでも幸せはちっとも減らない
ひとりの女とひとりの男は手に手をとって
我ながら呆然として
何もないところに立ち尽くす

すると時間の深みからまたしても
あの秘密の誰かの声が聞こえる

「なんにもないのになにもかもある

 それこそ私の最大の贈り物

 それを私は愛と呼ぶのだ」






rohengram799 at 10:27|PermalinkComments(4)

2015年12月27日

色雲便りNo.20:ハイカイカレンダー

年末、薬局や銀行、洋服屋さん(笑)などに行くと、昔ほどではありませんが来年のカレンダーをくれたりしますよね。


♪ひとつめくり忘れた暦が 寒そうにふるえ柱に張りついている……


これは懐かしいとんぼちゃんの『ひと足遅れの春』の歌い出しですが、○○暦(こよみ)というカレンダーもたくさん売られていますね。英語のcalendarは、毎月の最初の日を意味するラテン語「kalendae」に由来するそうで、日本語のカレンダーはこの英語からの借用語だそうです。そのカレンダーについてこんな記事を読みました。


《大安、仏滅…六曜「差別につながる」 カレンダー配布中止、大分》
大分県や佐伯市などは25日、カレンダーや冊子に大安や仏滅といった「六曜」を記載していたとして、配布中止などの対応を取ったと明らかにした。県人権・同和対策課は「科学的根拠のない迷信を信じることが差別につながる場合がある」と説明する。



えっと……よくわからないのですが、なぜこんな発想になってしまったのか? 文字が多いと印刷代が高くつくからシンプルにするよ!という方がまだ納得できるのですが……。大安とかにこだわる人は確かにいるけれど、行政がらみでそんなに気にすることなのか? 迷信による大事件が続いたのでしょうか?


カレンダーに書かれた見慣れない言葉や文字に「これはなに?」と祖父母にたずねる孫もいるでしょう。そこから会話も始まるし、その考えがどこで生まれて、どんな風に活用されてきたかとか、こだわるのはよくないと思うなら具体例をあげてそれを話せばいいし……知識を増やすきっかけにもなるのでは?と私なんかは思うのですが……。



痴呆やボケは放送禁止用語となり、認知症と変わりましたね。そして「徘徊」も……認知症の人に対して「徘徊(はいかい)」という言葉を使うのをやめる自治体や団体が全国で増えているそうです。あてもなく歩き回るという意味の「徘徊」という言葉が、認知症への誤解や偏見を招きかねないとの指摘があるため……だそうで、実際検索してみたらかなり前から「ひとり歩き」「お散歩」などに言い換えているところもたくさんありました。 厚生労働省は2004年、侮辱的な意味が含まれるなどとして「痴呆症」から「認知症」に変更しましたが、徘徊については「医学的には症状を表す言葉で、国が用語を変更する段階にはない」(担当者)と……。



「徘徊」という言葉、いろんな受け取り方があると思いますが、私は「ひとり歩き」より危機感があり、その人に注意が向けられている気がするのであえて言い換えるのはなぁ……と思っています。施設内などで入所者やその家族向けの言葉として「お散歩」とか使うのは悪くないと思いますが(ぶっちゃけて言うと、職員が私たちはこんなところまで入所している方々やその、ご家族に配慮してるんですよ~というアピール、自己満足にしか感じられない……すみません、なんの経験もないのに)対外的には「徘徊」の方がいろんな状(情)況をつたえやすい気がします。



♪母はすべてを暦に刻んで流して来たんだろう 
悲しさや苦しさはきっとあったはずなのに
運がいいとか 悪いとか 人は時々 口にするけど
めぐる暦は季節の中で漂いながら過ぎてゆく……



私の暦はどんな暦ですかね~日めくりだったら毎日グチばかりかしら……まぁ1日たてば破り捨ててしまうのでスッキリはするかも(;^_^A) 出来れば、ささやかでも美しい人生の花暦を完成させたいものです~1年一枚の大判サイズで~今のところ、51枚ですね(笑)


4月生まれだから、いろんな桜が描かれていたらいいな~なんて夢想をしていたら、休憩が終わってしまう~もうひと頑張り、仕事してきまーす(*・x・)ノ






rohengram799 at 17:23|PermalinkComments(10)

2011年04月21日

第464号:ささやかな人生

♪花びらが散ったあとの
桜がとても冷たくされるように
誰にも心の片隅に見せたくはないものがあるよね



こちらの桜はすっかり散ってしまいました。かわりに紫陽花の葉っぱがイキイキしているのを見かけます。昨日『てのひら』の話を書きましたが、それと桜をあわせたようなこんな句がありました。


『てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれ来る』(大西民子)


桜の花が散る様子を見て、自分のもの悲しさ、さみしさだけにとらわれている凡人の私などにはかなり衝撃的な一句であります。はらはらと舞散る花びらは、優しくかなしい。ただそこにある、悠久の流れの中に存在し続ける、空の傷からこぼれおちた血の雫なのだと思い、その痛みを手当て出来ないかわりに、両方のてのひらで受ける。意識して受け止めることにより「自然と共存しているのだ」ということをより深く強く感じるのかもしれませんね。


自分だけの悲しさやさみしさにいつまでもとらわれてはいけない…静かに諭されているような気がします。


♪風よ 季節の訪れを告げたら淋しい人の心に吹け
そしてめぐる季節よ
その愛を拾って終わりのない物語を作れ

やさしかった 恋人達よ
ささやかな この人生を
喜びとか 悲しみとかの
言葉で決めて 欲しくはない


どうぞ皆さま、今日1日をおだやかに過ごして下さいませ。



rohengram799 at 10:40|PermalinkComments(11)