備忘の果実 〜オスカー戯言日記〜

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タグ:新川和江

本当なら今日が「成人の日」ってやっぱり思ってしまう。今日だったら月曜日に有休を取って土日月火の4連休に出来たのに!と思った人もいるかも?(^-^;


昨日は新聞にいつものようにサントリーの広告で伊集院静さんの「君に乾杯!」がありました。今年のタイトルは「ヤンチャでも困った大人でもかまわない。」。


【これだけは覚えていて欲しい。真の大人は自分だけのために生きない。お金がすべてと決して思わない。品性を得ることは人生の最高の宝物だ。】


昨日のニュースで見た、どうすればそんな格好をしようと思うのかという、バカの見本市みたいな人間たちにこの言葉は届くのでしょうか? 一生、そのスタイル(外見、服装)で生き抜けるならそれはそれでエライ!と思うけれど、また中途半端にチャラい格好で生活していくんだろうなぁ。




読売新聞の編集手帳に新川和江さんの『名づけられた葉』の一部が引用されていました。自分がポプラとプラタナスを混同していたことに気づきました。私もやっぱりアホな新成人と五十歩百歩なのかも……反省m(_ _;m)三(m;_ _)m




『名づけられた葉』  新川 和江


ポプラの木には ポプラの葉
何千何万芽をふいて
緑の小さな手をひろげ
いっしんにひらひらさせても
ひとつひとつのてのひらに
載せられる名はみな同じ <ポプラの葉>


わたしも
いちまいの葉にすぎないけれど
あつい血の樹液をもつ
にんげんの歴史の幹から分かれた小枝に
不安げにしがみついた
おさない葉っぱにすぎないけれど
わたしは呼ばれる
わたしだけの名で 朝に夕に


だからわたし 考えなければならない
誰のまねでもない
葉脈の走らせ方を 刻み(きざみ)のいれ方を
せいいっぱい緑をかがやかせて
うつくしく散る法を
名づけられた葉なのだから 考えなければならない
どんなに風がつよくとも


絲山秋子さんの『忘れられたワルツ』という短編集の中に「葬式とオーロラ」という作品があります。小学校時代の担任の先生のお葬式にいく話。「人間の努力は必ず報われる」と言われたことを思い出す主人公。そんなのきれいごとじゃないかと。「努力が報われるのだったら、ストーカーなんてものすごい努力してるぞ。」には、笑ってしまった。でも「最近になって先生の言うことにも一理あるような気がしてきたのだ。」



「外に向かっての努力や、外からの決定や評価を求める努力は得てして報われない。しかし勝ち負けを放棄して内向きになったとき、自分のための努力は実るんじゃないか。自分自身を認められるんじゃないか。経験値になるんじゃないか。意外なところで生きてくる。それが報われるという言葉の意味なんじゃないか。」(河出文庫・p69~70)



いとうせいこうさん『想像ラジオ』とも違う、震災を扱った7つの物語。時間が経過して「ふつう」に暮らしているつもりでも、やっぱり何かが違っている・・・そんな日常が描かれています。表題作は特にそれがあらわれているかもしれない。いとうせいこうさんの『想像ラジオ』とも違う作品。最後の「神と神田喜十郎」が一番好き。


「神は苦しんでいるひととともにある。しかし誰も助けない。誰も救わない。
ひとびとが求める救いというのは妄想でもあるんだが、妄想っていうのはやけに力があるんだよなー」 (p174)




絲山さんの文章はユーモアもあって、なんか、かなしいとか辛いとかいうよりも、自分の今までを振り返って、ふふっと笑って、顔をあげて前を向いてまた死ぬまで生きますかね~となる読後感。 吉村萬壱さんの解説もよかったです。



最後に・・・こたえはだれもわからない。だから生きていくんじゃないかな、自分なりに「いっしょうけんめい」今を明日を・・・と思った詩を書いておきます。




『いっしょうけんめい』(新川和江)


  いっしょうけんめい泳いだら
  いつか 魚になれますか
  尾ひれが生えて すいすいと
  沖まで泳いで ゆけますか

  いっしょうけんめい はばたいたら
  いつか 小鳥に なれますか
  つばさが生えて ゆうゆうと
  広いお空が とべますか

  いっしょうけんめい 背のびをしたら
  いつか ポプラに なれますか
  みどりの葉っぱを そよがせて
  風とおはなし できますか

  いっしょうけんめい 咲こうとしたら
  いつか お花に なれますか
  ひかりと水に 愛されて
  わたしもきれいに さけますか

八重桜が満開になってきました。ピンク色の濃い桜、若いキャピキャピした娘さんのようだと思ってしまいます(笑)



ツヨちゃんと今井美樹さんのドラマで『冬のサクラ』がありましたが、新川和江さんの詩に『ふゆのさくら』がありました。全部がひらがなのこのように詩、字面からも女性らしさが伝わってきて、いじらしくていいなぁと思いました。不粋に「不倫?」と思う人もいたようですが、それはないんじゃないかなぁ、と。相手に向けられた純粋な想い、あるいは少女の憧れのようにも感じました。






『ふゆのさくら』(新川和江)


おとことおんなが

われなべにとじぶたしきにむすばれて

つぎのひからはやぬかみそくさく

なっていくのはいやなのです

あなたがしゅろうのかねであるなら

わたくしはそのひびきでありたい

あなたがうたのひとふしであるなら

わたくしはそのついくでありたい

あなたがいっこのれもんであるなら

わたくしはかがみのなかのれもん

そのようにあなたとしずかにむかいあいたい

たましいのせかいでは

わたくしもあなたもえいえんのわらべで

そうしたおままごともゆるされてあるでしょう

しめったふとんのにおいのする

まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる

ひとつやねのしたにすめないからといって

なにをかなしむひつようがありましょう

ごらんなさいだいりびなのように

わたくしたちがならんですわったござのうえ

そこだけあかるくくれなずんで

たえまなくさくらのはなびらがちりかかる



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