長崎

2017年09月28日

竹酔雲便りNo.22:賢人

新聞で「佐賀市が市民500人を対象に幕末維新期に活躍した「佐賀の七賢人」の知名度を調査したところ、7人全員の名前を答えられた人は10・2%で、逆に一人も答えられなかった人は25・4%だった。回答が多かったのは早稲田大学創設者の大隈重信で6割を超えた。」という記事を読みました。


市は「来年は明治維新150年。企画展などを通じて、多くの人の目に触れるようしていきたい」とのことですが、あまり欲張らない方が・・・なんて思ってしまいました。県の有名人ならいろんな人の名前がなんとも挙がりそうなのに。山梨には「七賢」というお酒があるので、最初日本酒の銘柄かと思ってしまいましたわ。


「佐賀の七賢人」

http://www012.upp.so-net.ne.jp/tsuji/sagasitikennjinn.html



二男が佐賀と長崎に行ってきたのですが、出かける前に「おみやげ、何がいい?」とLINEがきた時に長崎は観光地や名物が結構すぐ浮かんだけれど「佐賀・・・佐賀は・・・何があった?」になってしまいました。おみやげには丸芳露(まるぼーろ)をもらいました。出来たてはとっても美味しかったそうです。




先日片付け物をしていたら、二男を出産するために長男と山梨に帰っていた時に書いていたノートが出てきました! 年末から帰っていたらしい・・・全く覚えていないわ(;´∀`) 長男は1歳10ヶ月くらい。ミカンを食べていた時の話とかごちゃごちゃ書いてありました。


「みかんをむくのがおそいとおこるし、わがままなやつだ。バナナを食べればいいのに・・・」

「サカナはやはりサケのよーで、おサカナを食べろし(方言)と言ったらサケの切り身をもって思いっきりかぶりつこうとしていた コワイ・・・」


「今日も1日元気いっぱい、おとーさん(私の父)と配達にいったらしい(実家は店屋) ほっぺはまっ赤でとってもイナカの子供になってしまった」

「自分が2階に行きたいときや下に降りたい時に
他人の手をとっていこう、とさいそくするようになった」


二男についてはこんなことが書いてありました。

「おナカの子の話をするとボコボコ ボコボコという小うるさいうごき方をする ○○(長男)はむんにゅっというかんじの大きい動きだったけど、この人はボコボコとせわしなく動いているようである」


お腹にいる時からやはりタイプが違ったようです(笑)



すっかり過去を懐かしむおばちゃんになってしまったワタクシ、今宵はこれにて・・・おやすみなさいませ(´ω` )zzZ






rohengram799 at 23:24コメント(4) 

2017年03月08日

春光雲便りNo.7:くれない

映画『この世界の片隅に』が大ヒットして、戦中生活などについて、あらためて関心をもった人も多いと思うのですが、そこに留まらず、まだまだたくさんの資料や作品等があるので、もう一歩踏み出してまたいろいろ考えなくてはなぁ・・・と思っていたら『戦争とおはぎとグリンピース』という本が西日本新聞社から昨年5月に発売されていたことを知りました。


【戦後まもなく、西日本新聞において、女性に特化した投稿欄「紅皿」が開設された。この投稿欄に昭和30年代掲載された作品の中から今読んでおきたい42編を選び、その一編ずつに解説をつけた。また、若い読者のために、用語解説も加えた。権力も武器も持たぬ市井の人々が何を願い何を守り何を光に生きてきたかを見つめ、戦後70年を経て新しい時代に踏み出そうとしている私たちのなすべきことを考えるきっかけにしようとした。】


帰国船が着く度におはぎを胸に息子を探す母親、配給の古い鍋に刻まれた家族の歴史・・・敗戦から9年後の昭和29年から、10年間に寄せられた3千を超える投稿から選ばれた42編。およそ600文字という制限の中で書かれた女性たちの日々の喜びや悲しみ。誰かに話すだけでなく、書かずにはいられなかったその気持ちがあふれているんだろうと思います。購入して読みたい一冊です。




私はお名前も存じ上げなかったのですが、14歳のとき長崎で被爆した体験を原点に、一貫して核兵器と人類の問題を表現し続けた作家の林京子(はやし・きょうこ)さんが2月19日に86歳で亡くなられたそうです。



◆誰と手をつないでいるの? 幼い長男に尋ねては、「ママ」と答えさせた。何度もそうしたという。原爆症が、いつ自分の命を奪いに来るか知れない。「母親の記憶を残したかったので」と、本紙で語ったことがある。◆短編『友よ』で、母親が言う。〈あんたが死んどれば、今日は三十三回忌だいね〉。おそらくは8月9日がめぐり来るたび、今年は何回忌とわが身の祥月命日を数えてきたのだろう。死の隣で、死を通して生を見つめた人である。
(3月2日読売新聞朝刊・編集手帳より)




今、中学生の時に国語の教科書で一部しか知らなかった『アンネの日記』を読んでいます。結構赤裸々に身体の変化や母親や姉に対して、一緒に隠れ家に住んでいる人たちについて書いてあって、ビックリしたり納得したり・・・。以前、小川洋子さんがアンネの暮らした場所や友人たちを訪ねる旅の本を読んでいたので、ああ、あの人のことか、あの場所かと思い出すことが出来てよかったです。



ちょっとイヤなことが続くと、どうしてもぐちぐち・ぶつぶつ(# ̄З ̄)言いたくなるんですが、まだまだ私なんて何の苦労もしていない、我慢できるはず!とアンネや先輩(はるか昔の女性)たちのたくましさに助けられています。今日も1日、出来るだけ笑顔で頑張ってきますね~皆さまもよい1日になりますように(*´∀`)ノ



rohengram799 at 10:56コメント(6) 

2016年10月20日

徳雲便りNo.14:時代

テレビで「ハロウィンイベントの次に来る(新しいお祭りさわぎ)のはイースターではないか」と言っていましたが、本来の意味を全く知らないで騒ぎたいだけ!というのは、もうやめたらいいんじゃないかと思ってしまいます。鶏卵業者が「よっしゃー!タマゴ売りまくるで~!」とノリノリでイベント企画するなら、それはそれでスゴいな……と感心しますが。その後、別の番組でエッグタルトを見てダンナが「エッグ……タマゴか……中は、たまごやき?」とボソッとつぶやいていたので、ああ、だいぶお疲れなのね、と思いました(´;ω;`)



《慶長元年暮、こごえそうな寒風のなかを、ボロをまとい、みじめに垢じみて、一様に片方の耳をそぎ落された二十数人が、裸足のまま山陽道を引き立てられていった、長崎で磔に処されるために…。》


秀吉により、苛酷に弾圧された切支丹信者の悲劇を描いた『磔(はりつけ)』(吉村昭)を読んでいます。表題作の他「三色旗」「コロリ」「動く牙」「洋船建造」……史実を元にした作品ばかりで、今は蘭方医・沼野玄昌殺害事件を扱った「コロリ」まで読み終わりました。短編なのに、中身が濃い!いかに自分が歴史を知らないかを痛感しました。



《日本二十六聖人殉教地(西坂公園)》……長崎の観光ガイドには必ず出てくる場所ではないでしょうか、キリストが十字架に架けられたゴルタゴの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれているそうです。二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でこの地で処刑されています。


戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年に長崎県はこの丘を史跡に指定しました。26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に、二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられ、西坂公園ができました。また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。



以前、長崎の教会を巡る旅番組で、この公園を見た記憶があります。「二十六聖人」という言葉はなんとなく聞いたことがあるという程度で、はじめから長崎にいた隠れキリシタンだと思っていました。小説では、殉教者たちよりも命令に従わなくてはならない、長崎奉行代理の心境がメインに描かれています。


まだ海外や外国人についての知識などなく、神道や仏教以外のものを信仰するということが信じられない時代です。彼らが口にする聞きなれない祈りの言葉も、ただ不気味に感じられるだけで、理解するとかしないの次元にはいっていないのですよね。 また純粋に布教目的だけの宣教師もいたでしょうが、日本が外国に乗っ取られてしまうのでは、植民地化しようとしているのではないか、という動きもあり……見せしめのために長い道中を歩かせ、処刑ということになったのでしょう。



処刑後、夕暮れになり、信者たちが「死体の衣服をはぎとり、柱を小刀でけずりと」り「翌朝、死体は、ほとんど裸体同然となり、柱にも刀の跡がおびただしかった。」という状況になります。監視する者たちもいましたが、海方向にはあまり目を向けていなかったようで、小舟で崖下に接近し、崖を這い上がったのです。死体を布切れで被い、近づけないように柵などもたてましたが、そんなものは関係なく、また衣類を持ち去ったとありました。


殉教者のものを何か少しでも身に付けたい、欲しい、そうしたら自分も神さまに近づくことが出来る、というような考えからの行動なのかもしれませんが……なんかあんまりじゃないだろうかと……ボロボロの姿で磔にされ、亡くなった後も同じ信仰心を持つ人たちに身ぐるみ剥がされるなんて……。


亡くなった人を悼む気持ちはどこに……と考えてしまったのは、イエスの教えを知らないからでしょうか? 彼らは自分たちの一部でも与えることが出来てよかったと思っているのでしょうか? 強い揺るぎない信仰心というものが、ぶれぶれで生きている私にはないのでわからなくて……非常に難しいです。



淡々と綴られた文章なので、自分の中でそれぞれの立場からいろんなことを考えることが出来ますが、処刑を扱っていますし、そういう場面は読んでいてキツいかなぁ、やっぱり……自分には出来ない!ってすぐ思ってしまいます。



二十六聖人に関連する作品はたくさんあるようなので、また興味をひく、読みやすいものがあれば読んでみたいです。





rohengram799 at 23:53コメント(10) 

2016年08月09日

乗雲便りNo.9:ひまわり

『離れ折紙』(黒川博行)を読んでいます。カバーが黒川雅子さんという方が描いた「いにしえを舞う 京都嶋原振袖太夫」でとても華やか! 表紙とタイトル買いですね(笑) 作者は、芸大卒業、高校の元美術教師という経歴を持っています。


ガラス工芸、日本刀、浮世絵などの美術品を題材とした美術ミステリー6編。連作なのかと思いましたが、そういうわけでもなく……京都にあるという架空の洛鷹美術館の学芸員である澤井、館長で澤井と同じマンションに住む河嶋などの人物は、重なって登場する場合があります。 澤井は美術取引で小金を儲けようとしていつも失敗するという……欲を出しすぎたらダメですね(^o^;) 最初は『ギャラリーフェイク』のフジタみたいな感じかと思ったら違いました。(サバ雲便りNo.3:心・美眼)


パート・ド・ヴェール(ガラスのやきもの)とかはじめて知りましたし、タイトルの「離れ折紙」は刀剣鑑定の家系である本阿弥家が極めをした鑑定書が、本来セットになっているべき刀剣と離れてしまったことを言います。持ち主が死んで遺族が折紙のことなど知らずに刀だけ売ってしまったとか。刀については父がすきだったので、多少は理解出来ましたが、全く知らない人には鑑定の仕方とかどこのことを指しているのか、丁寧に書かれていると思いましたが、わからない部分が多いかも。父を思い出す作品でしたが、キツネとタヌキの化かし合いみたいで、ああ、ウチのお父さんもお金をムダにしてたに違いない(ーー;)という気持ちになりましたわ。




『ひまわりはあなたに渡す長崎忌』(満明寺鷹さん)


山梨の北杜市明野は、南アルプス、八ヶ岳などに囲まれ、1年を通じて日照時間が全国一と言われていて、広大なひまわり畑が有名です。供花にはハデすぎるかもしれませんが、空の上から黄色はよく見えるでしょう。花たちもまた空を見上げて咲いています。


古くて美しいものが長く人々に愛されるように、いつまでも亡き人々に想いをよせて、おだやかで美しい年月を次世代に受け継ぐことができますように。



追記:黒川雅子さんは黒川博行さんの奥さまでした! 舞妓さんとかたくさん描かれているので、花柳界では有名な画家のようです。
《黒川雅子のデッサン  BLOG版》 
http://masakuro.exblog.jp/





rohengram799 at 12:20コメント(16) 

2014年02月01日

紅雲便りNo.1:耕運便りになりますように(^◇^)

年があけてあっという間に1ヶ月……2月になりました。今月は子どもたちの誕生日月でもあります。23と25になるんですよ~ワタクシも白髪が増えるワケです(;^_^A


『遊び女のちひさき足の踏み絵かな』(細川加賀)


2月の季語には春めいたものがたくさんありますが、この句の季語は「踏み絵」!! 長崎で旧暦の正月4日から8日までの間、この絵踏を行事としていたからだそうです。長崎の町々が順番に踏絵をしましたが、人気があったのは8日の丸山町。この街には遊女が多くいて、踏絵の際に遊女の素足が見られることが良かったようです←どの時代もこういう輩はいますな(・・;) 丸山遊女が踏絵をしている錦絵が人気があったなんて話も……全くキリスト教に関係のない人にとっては、楽しみだったのでしょうが、まぁなんとも……な話ではありますね。


さてさて、今月からは「紅雲便り」になります。前に「こううん」と打ち込んだ時にこの文字が出て美しいなぁと思っていました。母が紅梅白梅の前で笑っている写真もあったので、このタイトルにしてみました。また自ら運を耕し好運・幸運にすべく……ナマケモノにならないようにの戒めでもあります( ̄▽ ̄;)


皆さま、お身体に気をつけて、どうぞ今月もお付き合い下さいませ。コメントのお返事は遅れると思いますが、今日の記事から復活させていただきます。またよろしくお願い致します<(_ _*)>





rohengram799 at 09:18コメント(13) 
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