鶴墳

2016年06月15日

閑雲便りNo.20:鷹と鶴

今日は梅雨空、ダムの貯水率があがらないので雨には降ってほしいのですが、「次期開催都市として選挙とリオ五輪が重なる混乱は、公益にそぐわない」とか自分が混乱を巻き起こしているのに、ワケのわからないことを言っている都知事のグダグタ具合と同じような、不快な気分になってしまいます。


『樹(き)の声のあふるるえごの盛りなり』(如月のら)


この句を見た時に『我(が)の声のあふるるエゴの盛りなり』と「記憶にございません」とまで言い出した都知事を連想してパクリ俳句をつくってしまいましたよ( ̄▽ ̄;) 本当に自分勝手でワガママでエゴ丸だし、いやむき出しでしょうか? 恥ずかしすぎますね。



さてさて……早朝時代劇で『暴れん坊将軍』が放送されているようですが、「犬公坊」と呼ばれた綱吉公に対し、吉宗は「鷹将軍」! その理由は「生類憐れみの令」で廃止されたのを復活させたのが吉宗だからのようです。実際、鷹狩り大好き(≧▽≦)だったみたいですね。


鷹狩りは鷹を使って鳥や兎を捕える狩猟。 腕に鷹をとまらせた埴輪があるそうで、日本では古墳時代から行われたと推測されています。支配階級を象徴する行為だったので、皇室、貴族、位の高い武士の間で独占的に行われたようです。


鷹狩りの獲物について特に考えたことはなく、カモ?なんて考えていたのですが、なんと!鶴が一番重宝されたといいます。そういえば昔は“おせちに鶴の肉”とか『美味しんぼ』に描いてあったなぁ……今はもちろん食べられません! 品川方面は鶴が多く生息し、保護も盛んだったそうです。そしてそんな狩りの獲物となった鶴を供養する『鶴墳(つるふん)』がありました。


鷹狩りの網差役(御鷹野の鳥類管理担当の江戸時代の職務で、鳥が飛来してくるように餌付けしたり、密漁取り締まりなど鷹狩りの裏方を受け持つ職務)として伊勢から橋爪源太郎という人が呼び寄せられたそうです。彼は明和元年(1764)に死去、橋爪家は五代まで続き明治維新を迎えました。明治35年(1902)に六代目源太郎が鶴の供養塔「鶴墳」と先祖供養塔を建立します。橋爪家のお墓(円能寺)の隣にありました。「塚」ではなく「墳墓」であるところに、愛情というか責任というか……お役目の重さを感じます。

《鶴墳》
http://otaku.edo-jidai.com/315.html

《徳川家のお鷹場》
http://www.kaneda.com/takaba1.html

《吉宗の鷹狩り》
http://www.photo-make.jp/hm_2/bird_yoshimene.html




昨日の新聞コラムに「頬返し(ほおがえし)」という言葉がありました。口に入れた食べ物を舌で転がして噛むこと。「頬返しがつかない」は頬ばりすぎて噛むことも呑むことも出来ない様子で、転じて「手に負えない事態」を指すそうです。


どんな状況でも欲張らずに、足るを知り、そしておさらば!する時には『微笑み返し』でいきたいなぁ、なんて昨日は考えながら職場で草むしりをしていました……と書いた後、都知事がやーっと「辞任の意向を固めた」との速報が……辞めたら終わり!にはならないので、いろんな疑問点をスッキリ、きちんと説明してほしいですね。



rohengram799 at 08:45コメント(8) 
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