2018年04月04日
清和雲便りNo.6:人形
♪夢を見る人形と みんな私を呼ぶの 風に揺られ 白い風船 飛んでるみたいと
昨日は田舎の月遅れのひな祭りでした。雛人形ではないけれど、伊藤つかさちゃんの「少女人形」が脳内に~。作曲は南こうせつさんでした。うん、らしいメロディです。
小林秀雄さんが昭和37年(1962年)10月に「朝日新聞」に発表した随筆『人形』、短いので全文載せます。この年はウチの兄が生まれた年。自分が作者の立場だったら、娘さんの立場だったら、夫だったら、妻だったら・・・。全く空気を読めない人間係ひとりでもいたら、と考えると恐ろしい。ただ、そこにいて、静かに穏やかに、何年経っても癒えない深い傷を当たり前のように共有する、そんな人間になりたいと思った作品でした。吉野弘さんの詩『夕焼け』の娘さんを思い出しました。
『或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。
着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も槌せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。
もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でピールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。』
【小林秀雄プロフィール】
http://www.shinchosha.co.jp/sp/writer/1511/
昨日は田舎の月遅れのひな祭りでした。雛人形ではないけれど、伊藤つかさちゃんの「少女人形」が脳内に~。作曲は南こうせつさんでした。うん、らしいメロディです。
小林秀雄さんが昭和37年(1962年)10月に「朝日新聞」に発表した随筆『人形』、短いので全文載せます。この年はウチの兄が生まれた年。自分が作者の立場だったら、娘さんの立場だったら、夫だったら、妻だったら・・・。全く空気を読めない人間係ひとりでもいたら、と考えると恐ろしい。ただ、そこにいて、静かに穏やかに、何年経っても癒えない深い傷を当たり前のように共有する、そんな人間になりたいと思った作品でした。吉野弘さんの詩『夕焼け』の娘さんを思い出しました。
『或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。
着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も槌せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。
もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でピールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。』
【小林秀雄プロフィール】
http://www.shinchosha.co.jp/sp/writer/1511/
コメント一覧
1. Posted by 猫ムスメ 2018年04月04日 16:32
う〜ん、これは…かなり考えさせられる随筆ですね>_< 3回読み返しました。
私はやはり、一番立派なのはこの旦那さんだと思いますね。おかしくなった? 妻を粛々と受け入れ旅に連れ歩く。それを何十年も続けるのは立派だと。
あと、「娘さんも」いい。最初このご夫婦の娘かと思いましたが、普通に相席しただけの「お嬢さん」なんですよね? それが咄嗟に状況を察知し、空気を合わせる。なかなか聡明なお嬢さんではないかと思います。
私はやはり、一番立派なのはこの旦那さんだと思いますね。おかしくなった? 妻を粛々と受け入れ旅に連れ歩く。それを何十年も続けるのは立派だと。
あと、「娘さんも」いい。最初このご夫婦の娘かと思いましたが、普通に相席しただけの「お嬢さん」なんですよね? それが咄嗟に状況を察知し、空気を合わせる。なかなか聡明なお嬢さんではないかと思います。
2. Posted by ミューちゃん 2018年04月04日 16:46
オスカーさん、こんにちは
伊藤つかささんって確か歌がヒットしてた時は、まだ中学生で、その当時の歌番組には出れなくて司会者が謝ってばっかりだった…て云う話を何回か聞いた事が有ります。それとかタモリさんが伊藤さんのファンで伊藤さんに会う為に「いいとも!」のテレフォンショッキングが始まったみたいです。実際、2回ぐらい出演したらしいのですが…。本当なのかどうかは僕も知りません(笑)
伊藤つかささんって確か歌がヒットしてた時は、まだ中学生で、その当時の歌番組には出れなくて司会者が謝ってばっかりだった…て云う話を何回か聞いた事が有ります。それとかタモリさんが伊藤さんのファンで伊藤さんに会う為に「いいとも!」のテレフォンショッキングが始まったみたいです。実際、2回ぐらい出演したらしいのですが…。本当なのかどうかは僕も知りません(笑)
3. Posted by オスカー 2018年04月04日 20:28
猫ムスメ様
今だったらこれは受け入れられないだろうなぁ、と思います。ダンナさんも奥さんを受け入れることで、辛さがいくらか減っているのかも、なんて思いました。しかし、かなしい食事、旅ですね。
今だったらこれは受け入れられないだろうなぁ、と思います。ダンナさんも奥さんを受け入れることで、辛さがいくらか減っているのかも、なんて思いました。しかし、かなしい食事、旅ですね。
4. Posted by オスカー 2018年04月04日 20:30
ミューちゃん様
伊藤つかさちゃんは金八先生のイメージが抜けないです。ウチのダンナさんもファンで、ラジオか何かの公開録音に行ったとか言ってました。
伊藤つかさちゃんは金八先生のイメージが抜けないです。ウチのダンナさんもファンで、ラジオか何かの公開録音に行ったとか言ってました。
5. Posted by まろゆーろ 2018年04月04日 21:29
狂気と正気の紙一重さが垣間見える恐ろしさ。そしてそれを他人が好奇な目で見るのではなくごく自然に受け入れ、同等に扱っている。気遣いや優しさの薄れている現代の日本と大違いですね。
やっぱり小林秀雄は素晴らしいです。
異端児で一言居士ながら美意識の高かった我が師匠の立原正秋ですら足元には及ばない気魄さがあります。
オスカーさんのお誕生日月の4月、暑い4月になりましたね。ヤマザクラもソメイヨシノも同時に咲いて同時に散っていく不思議な今年です。
今月も達者にお過ごしください。
やっぱり小林秀雄は素晴らしいです。
異端児で一言居士ながら美意識の高かった我が師匠の立原正秋ですら足元には及ばない気魄さがあります。
オスカーさんのお誕生日月の4月、暑い4月になりましたね。ヤマザクラもソメイヨシノも同時に咲いて同時に散っていく不思議な今年です。
今月も達者にお過ごしください。
6. Posted by オスカー 2018年04月05日 18:44
まろゆーろ様
今日は風が冷たく感じました。気温差がありすぎて、なんだか毎日ぼや~んとして緊張感のない私です。 八重桜が満開になりつつあります。「うつくしいもの」を出来る限り、うつくしくない己の中に取り込みたいとあがいております(;´ω`)
今日は風が冷たく感じました。気温差がありすぎて、なんだか毎日ぼや~んとして緊張感のない私です。 八重桜が満開になりつつあります。「うつくしいもの」を出来る限り、うつくしくない己の中に取り込みたいとあがいております(;´ω`)